パラリンピック大会TVに涙の訳
東京2020パラリンピック大会が、盛況の中、無事に終わりましたね。
いつになく夢中になり、在宅中はひねもすテレビにくぎ付けの私でした。
これまでパラリンピック大会の存在を知らず、今回初めて視聴致しました。
世の中にこんなにもたくさんの障がいをもった方たちがいたのだという事を知らされました。
そして、健常者に負けないくらいのチャレンジ精神、忍耐力、技、等々に目を見張るばかりでした。
半世紀近くも前の事ではありますが、
実は障がいをもっている方の何人かと実際に交流がありました。
テレビ画面を観ながらあれこれと当時を思い巡らし、現在はどう過ごされているのだろうとネットを検索したりしていました。
1960年代当時、沖縄県に蔓延していた風疹。
その風疹にかかった母親から生まれた耳の聞こえない子ども達。
あの小さな石垣島にも十数人の風疹児が生まれたのです。
この件に関しては、安易には書けない、精神的にゆとりのある状態でしか書けない、たっぷりの時間が必要、などと思っている内に何十年も経ってしまいました。
そのろうあ者の方、そして目の見えない方、筋ジフトロフィーの方。
石垣島の風疹児の方たち以外は、某大会に沖縄県代表として出場した事がきっかけで出合った方たちです。
風疹児以外のろうの方たちには、聾学校に勤務した事により幼稚部から小・中・高校生、そして同年代の教師とは一緒に旅行をしたり、自宅アパートに呼んでは手話で会話をしたものです。
それぞれ話せば長いストーリーがあり、いつかは書き記したいとずっと思っている事ではあります。
その深層事情があるからか、パラリンピック選手たちの障がいをものともせず目的に向かっている健気どころか壮絶な姿に、つい涙ぐんでしまいました。
盲の方、筋ジフトロフィーの方は、文通、そして実際にご自宅をお訪ねしたものです。
我ながら、自らの天真爛漫さを思うのですが、ヤマトゥに来てまだ間もない頃、電車の乗り方もよく分からない頃に石川県金沢市、群馬県館林市のご自宅に、一人でほとんど突然お訪ねしているのです。
盲の方は、ピアノが出来て、我が作詞に作曲して下さったものです。
筋ジフトロフィーの方は、畳の上を座した姿でいざり寄って移動していらした姿が目に焼き付いております。
・・・ ・・・。
当時の写真や手紙、日記等ありますので、書きたいという思いが改めて沸いてきました。
それにしても当パラリンピック、幾つかの種目がある中、ボッチャという種目は印象的でした。
他の視聴健常者、障がい者の方たちにも人気があるようです。
とにもかくにも、パラリンピック大会というイベントを考案した方・団体に大きな拍手をお贈り致します。
障がいの先天・後天に拘わらず、選手たちは自己表現、自己実現の場に出合えてどんなにか人生に彩りを得ている事でしょう!
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